ようこそ!25周年を迎えた(財)松山市体育協会に岩村さんをお迎えしました。  
 
(このスペシャルトークは1月19日、松山総合コミュニティセンター 「キャメリアホール」で開催された《わくわくトーク》から抜粋しています)

司会:藤田勇次郎(南海放送アナウンサー)
お客様:中村時広松山市長

  スポーツフォーラム2008のステージ
スポーツフォーラム2008のステージ
 
  〈久しぶりの日本で一番何をしたいですか〉
(成田空港での第一声)愛媛宇和島の魚が食べたい!
 
  成田航空についた時には、美味しい愛媛県の魚を一日でも早く食べたいと思いました。はっきり言ってアメリカの魚はまずいんですよ。改めて、宇和島の田舎らしさが好きだな〜と強く思ったですね。  
  〈日本とアメリカの野球の違いを教えてください〉
先ずは、驚いたことにボールの大きさ・製作技術の違いですね!
 
 
精悍で快活な岩村選手  
精悍で快活な岩村選手  
ボールが一回り大きいんです。従って空気抵抗が大きいため、メジャーの球は飛ばないですね。

また、ボールを作る技術が劣っていると感じました。例えば、日本のボールはどこから見ても均等に作られているでしょう。アメリカは新しいボールでも曲がっていたり、縫い目一つでも「これはあかんやろ」というものがあります。
いや〜日本人で良かったと思います。
 
  審判のジャッジに直結するストライクゾーンの違いです
凄く違いますね。
日本では、ホームプレートがあるところがストライクゾーンですが、アメリカでは審判がバッターサイドにちょっと立つんです。左バッターなら右より、右バッターなら左よりに立ちます、何故かというとインコースの球を厳しくとろうとするためなんです。
だから、インコースに立つとアウトコースの球が見えにくくなるで、バラバラなジャッジになってしまいます。でも審判は絶対。自分がボールだろうがと思った時はくやしいですよ。1球で、三振かどうかと云う厳しいところでやっていますから。審判がストライクと言ったら従わなければいけない。ただもう少し改善していこうよと言う思いはあります。
 
 
  左・藤田司会者 右・中村市長
左・藤田司会者 右・中村市長
人種によるジャッジの差が微妙ですね。
それに人種差別が若干ありますね。
白人と黒人と南米人の人によって変わります。ピッチャーが大投手だったり、白人だったり中南米人だったりした時に、ストライクゾーンが大きく変わったり、審判が微妙に違います。
特にバッターが日本人だったらよけいに違ってきます。
 
  〈熱狂的な野球ファンが多いアメリカですが、応援マナーは〉
応援しているチームと対戦チームへの差が歴然です。
 
  ニューヨークやボストンなどひどい雰囲気ですね。バッターボックスに立つでしょう。シーンとしているんです。僕らが攻撃している時は「これが野球の音か」とか思うくらい、詰まった音とかが聞こえる感じです。(笑)でもヒットは大丈夫、「あ〜」とかスタンドでため息が出ますね。ホームランはブーイングになります。僕はホームランが少なかったから、まだそこまで経験していませんが。  
     
  〈1番バッターに定着したことは、意外だったんですか 〉
僕の話を盗み聞きしてたのと思うくらいでした。
 
 
岩村明憲選手インタビュー  
そんなことないですよ。最初は6番や7番で出始めて、4月の終わり頃に脇腹をけがして、そこから1ヶ月くらいリハビリして戻ったとき、報道陣に「いつかは1番か3番を実力で出なければいけないよね」って話をしたんです。

そしたら2週間後ぐらいの6月に入った時、「お前1番」と言われて、一瞬、そのタイミングの良さに、僕の話を盗み聞きしてたのと思うくらいでした。(笑)
 
  〈何時に起きてどんな生活をされているのか大変興味があります。教えてください〉
ホームの時には14時くらいに球場に入り15時30分から練習が始まる感じです。
 
  試合が日本と違って19時からなので、終わるのが22時か23時が平均になってしまいます。
だから朝はその分ゆっくりします。だいたい10時か11時くらいに起きて、散歩がてら買い物に行ったりします。ビジターはもっとゆっくりです。一番遅いバスはホテル出発が16時。これより早く準備が出来れば、自分で走って行きますし、でなければこのバスに乗ります。 基本的にメジャーの場合は現地集合で現地解散なんです。
移動はチャーター機、試合がおわって23時、クラブハウス出発が24時、空港着いてそのままチャーター機に乗ります。
移動する時間は平均で約3時間くらいです。
機内では、エコノミーで一列3席を与えられていますが、出発前から寝ています。(笑)
 
  〈なにくそ魂の謂われを教えてください〉
四国の先輩 中西太さんとの出会いで教わりました。
 
  中西さんは、ヤクルトに僕が入った時に臨時コーチでアドバイザーをされていました。 一緒に戦い抜いてきた人なんですが、今72歳くらいでしょうか。 当時60を越えられているんですが、僕がバッティング練習をする時は、一緒に投げてくれたんです。それも東京のアスファルトのくそ暑い中で、毎日12時半から14時迄。
僕のバッティングの基礎にあったものを、伸ばしてもらって今の自分があると思っています。

 
大きな身振りで、なにくそ魂を話す岩村選手  
その時「これくらいやらなあかんぞ。何くそや!」僕「なにくそ」と聞いた時腹が立ちました。反骨心出した時に、“なにくそ”と言う言葉を叫ぶ時が有るんですけど、中西さんは「いやそれだけじゃない、この言葉にはな、漢字と意味があるんじゃ」と、漢字にすると、「何事にも苦しむことが礎(いしずえ)となる」=「何苦楚魂」。本来ならば石偏がある“そ”なんでし ょうけど、中西さんに書いていただいたものは石がありません。それが今は本当だと思っています。「今苦しめば必ず後で報われる。今成功している人は昔絶対苦労している。それがないと今の自分は絶対ない」そこが心に響いたんです。

思えば、母親から「負けたらなにくそと言う気持ちでやるんや」と言う言葉をずっと云われてましたから、すんなり入ってきたんだと思います。

僕が1年目の時は、本当に守備が下手でした。自分でもがっかりするぐらいだったんですよ。
サードゴロが飛んでくればみんなエラーになるくらいで、監督も胃薬を手放させなくて。
その時に色々と言われて、でもノックを受けて絶対うまくなってやると誓って、毎日ノックを受けました。試合前でも平気で一箱とか、特訓のようにノックを受けて、そこから試合に入っていったんですよ。そしたら、結果的に日本でゴールデンクラブを6回とれたんですよ。
この“なにくそ魂”はヘルメットにも書かれていて、「迷ったらこれ見ろ」と言われましてね。
だから、バッターボックスに入る度に毎回見てました。
 
     
  〈人一倍家族思いの岩村さんが2005年夏に、最愛のお母さんを亡くしました、その知らせを受け、そしてゲームに出てホームランを2本打った。その時の心の葛藤、残した結果、今振り返るとどのように思いますか〉
悔いしか残っていないのです。
 
  帰りたかった。打ったホームランは、母親が打たしてくれたとしか思えないんですね。ずっと眠れなくて、睡眠2時間も寝てない状態でグランドに行って、試合の準備して、監督に相談に行ったら、「もう良いから帰れ」と言われたんですけど、自分の出来ることは何かなと考えましたね。 プロ野球選手になったというのは、自分の力だけでは絶対に成れてないんです。
まず一番感謝しなければいけないのは両親で、両親が思うようにやってあげたいなと思いました。 自分で考えて、悔しい、苦しいけど、“自分に出来るのは試合に出ることが何よりも親孝行の最後になるんじゃないかな”て言う気持ちが、帰りたいと云う気持ちより上回ったんで、監督に「いや僕残ります」。プレーをして母親が喜ぶ姿で餞にしてあげたいなと思いました。
 
  〈子供の頃は、どんな野球選手でどんな練習をしていましたか〉
とにかく壁にボールを当てる、壁あてをずっとやっていました。
 
 
  満員の客席。ユニフォーム姿の子供たちも!
  満員の客席。ユニフォーム姿の子供たちも!
小学校の夏休みも、最初2時間壁当てして、10分間休憩して、また2時間壁当てしていました。
場所は母親の経営する美容室の外壁です。2時間やると頭から湯気が出てきて、休憩の時、美容室に入り頭から水をかけ、また壁当てをするんです。 最後はとうとう壁にヒビが入りました。堅いボールは使ってないんですよ!
小学校はソフトで、中学は軟式で、公式ボールは高校生で初めて持ったんです。ヒビが入った時さすがに母親から言われました。「家が倒れる前に止めて」(笑)それだけ好きだったんですよ。
 
  愛媛県の野球のレベルの高さの中で、成長させてもらった。
僕は、愛媛県の野球のレベルの高さの中で、成長させてもらったのが良かったと思っています。 それは小学校のソフトボールの頃からでしたから。 他の県ではなかなかソフトボールは盛んじゃないんですよ。だけど、この愛媛県は盛んだと思うし、そこから軟式野球、ボーイズリーグ、リトルリーグがあり、僕は軟式野球を選択しました。 高校野球も含めて、愛媛の野球は絶対レベルが高いと思います。 だから、僕は、人との出会いよりも何よりも、愛媛の野球と出会えたのが一番良かったですね。
 
  〈愛媛に恩返し。岩村基金のお話を聞かせてください〉
岩村基金で考えているのは、球場にAEDを付けたいんです。
 
 
岩村明憲選手インタビュー  
育ててもらったのは親だけじゃない、特に宇和島は田舎で、みんなが兄弟みたいな所に育ちましたから、そう言う人たちに少しでも恩返しをと考えていました。でも個人にはできない、そこで先ず宇和島市から恩返しを思い“宇和島市に何かしたいな” “野球でも何かやってあげたい”と言う気持ちがありました。ゆとりができれば、松山市にも絶対やってあげたいと思っています。

岩村基金で考えているのは、球場にAEDを付けたいんです。坊っちゃんスタジアムは付いていますけれど、子供たちがやっているグランドにない可能性が非常に高いので、最低1台は付けたい。子供たちが僕らを目指して、プロ野球選手になりたい、メジャーリーガーになりたいと言ってる子らに夢をね、僕らがつみ取ることは出来ないのでそこは支えてやらなければいけないと思います。そこで唯一できるのは野球選手だと思うので、野球選手が声をかけて愛媛県も、中村市長も宇和島市長もそうですし、愛媛県下全部の野球をやっている所、最低AEDを設置したいなと、昨年シーズン中ずっと考えていましたね。
 
  〈この1年を通じて印象深いまた緊張したシーンは〉
緊張したのは最後の試合ですね。印象に残っているのは藤田君がNYに来てくれたこと。
 
 
  終始笑顔の中村時広松山市長
  終始笑顔の中村時広松山市長
162試合目で、順位も最下位と決まっていたんですが、監督に「お前セカンド行け」とポジションを変えられたんです。 最後の試合にポジションが違うと風景が全く違うんです。“ここでやるのか”と言う感じはありましたね。
“この視界の違いはなんだ!やけにバッターは遠いし、本当に出来るのかな〜”と言う緊張がありました。これはポジションが変わるとみんな緊張するんですよ。
球が飛んできて、無事にこなせて「良かったな〜」と思いました。

印象に残っている試合は色々あります。開幕戦も残っていますね。藤田君(RNBアナ)が見に来てくれたんです。
 
  (司会=藤田氏)  
 
開幕戦でNY迄行った藤田司会者  
開幕戦でNY迄行った藤田司会者  
そうなんです。大リーグ第一打席を、この眼で見たいと思いニューヨークに行って来ました。
その記念すべき第一打席は、岩村選手らしい打撃になったんです。ショートゴロを打って、ショートのエラーで出塁したんです。そのショートを守っていたのが、 ヤンキースの大スター・ディレックジーターなんです。
打った瞬間、「あっシュートゴロか」と思ったんですが、岩村選手は足が速いのでジータ選手が慌てて投げて、結果暴投で出塁になったわけです。で2塁に進んだ時・・・・
 
 

打ったら走るそれが基本です。
そう、ジータ選手に「お前足が速すぎる」と言われたんですよ。
まあ〜、打ったら走るそれが基本です。2004年に44本打った時も、内野安打も結構ありましたし、打ったら走る姿勢は基本ですから、“打ったらしっかり走れ”とそう言う気持ちは今でも大事にしています。

 
     
  〈三振しても胸を張ってるのが岩村選手。三振を見せるのも、エラーを見せるのもプロ〉
ミスはつきもの。失敗した数だけ人間強くなる。
 
 
  体を使って、守備の基本を披露
  体を使って、守備の基本を披露
子供たちはわかると思うんですけど、三振する時もあるし、エラーをする時もある。
人間だから!どの社会でも。ただどこで、“あいつは凄いやつだな”と言わせるのは、ミスした後の対処の仕方なんです。その後どうカバーするかどう対処するか、そこしか僕は考えていないんです。

だから最初の頃守備が下手で“カバーしていくにはバッティングしかない”と、とにかくバッティングばっかりやりました。

すかさずマネる子供たち  
すかさずマネる子供たち  
日本というのは、長所・短所の中で、短所をなんとかしよ〜、長所はそのままで良いと言う考えですが、アメリカは、短所はほっといて、長所を伸ばしていこう、そうすると短所は勝手に隠れると言う考えなんです。そこが日本と違う部分ですね。
後の対応について、アメリカに行って、改めて思い知らされたことです。そう言う物事の考え方もあるんだな〜と。

だから、子供たちが、三振やエラーして悔しがるですけど、誰もやりたくてミスなんかしていない、ミスは野球につきものなんです。 その失敗から何を学ぶかが大切。失敗した数だけ人間強くなる。どんどん失敗してもらいたいと思います。
 
     
  〈今シーズンの目標は〉
100回ホームベースを踏むことが1番バッターの仕事
 
 
  バッティングを披露する岩村選手
  バッティングを披露する岩村選手
これだけたくさんの方々が来ていただいて、僕はプレッシャーを感じているんですけれど(笑) 。
僕には、愛媛のファンの方が応援してくれていることが、凄く強みになるんです。 地元の方に突き放されるのが一番つらいことだから。地元の方に応援されているのが最大の武器です。その人たちに、明るい情報、ニュース、良いプレー、みんなの励みになれるようなプレーをしていかなくてはいけない。
そのためには、いい成績を出さなきゃいけない。やっぱり数字的には3割が大事だと思います。ホームランは7本以上は打ちたいな!(笑)
10本は最低でも打たないといけないと思っているんですけど、1番バッターなんで頑張ってやりたいと思います。後は得点を、100回ホームベースを踏むことが1番バッターの仕事だと思いますので、それが目標です。
 
     
  〈最後に愛媛の子供たちにひと言と好きな言葉を〉  
 
花束をくれた子にナゼナゼする岩村選手  

花束をくれた子を激励する岩村選手

 
あと10年くらいはメジャーでやりたいと思っていますから、皆さん頑張れば一緒にグランドに立っているかもしれません。楽しみにしています。

好きな言葉は「夢」です。いつまでもこの言葉を大切にしていきたいと思っています。
 
 
長時間、本当に素敵なお話をありがとうございました。実は内容はもっともっと多岐にわたり、ためになるお話が溢れていたのですが、スペースの関係で一部を抜粋してご紹介しています。お話の後、岩村選手から中村松山市長に、なにくそ魂のことば入りの「バット」やタンパベイのユニフォーム」が贈呈されました。市長は坊っちゃん球場にある「の・ボールミュージアム」に「岩村コーナー」を作ることを約束されました。楽しみですね。
また、ちびっ子たちの岩村選手への質問コーナーでは、岩村選手の意外なひと言が出て、場内は爆笑しました。その質問は「いままでピッチャーになりたいと思ったことはありますか?」に、「今でも思っています」と、意外な一端を披露されたのです。
ケガなどに気を付けて、今年益々のご活躍をお祈りします。
 
 
お客さまプレゼント用   市長に贈られたユニフォーム   贈られたバット
お客さまプレゼント用   市長に贈られたユニフォーム   贈られたバット